[ 80年代バックパッカーの風景]
鉄道旅行の愉しみ
(その9)夜行列車(2)
続いて1983年12月から翌年2月にかけての冬の旅から。全部で10回夜行列車を利用していますがその前半。
◇クシェットについて
この時以降何回か利用しているので、ここで触れておこうと思うのですが、まずは「国際列車」で載せたオリエント急行の時刻表をご覧ください。脚注に寝台列車を示すベッドのマークに種類が二つあって、斜め上から見た立派そうなのが寝台車、真横から見た形のものがクシェットです。夜行列車の車両は、コンパートメント車などの普通の座席車、クシェット、寝台車の3パターン。寝台車にバックパッカーの姿はなく(乗ったことがないので本当のところは知らないのであるが多分)、通常は追加料金の要らない座席車両に乗り込みます。ところが、物価が安く、列車が混雑する南欧などでは、疲れていたりするとついついクシェットなる簡易寝台に日和ってしまうのですね。
クシェット(2等)はかいこ棚方式で、3段ずつ向かい合ってひと部屋の定員が6名となります。当時は「三段式B寝台のカーテンのないもの」という、一言で納得の言い方がありましたが、この例えももう通じにくいのかも知れません。簡素ではありますがベッドメーキングがされます。ベッド(かいこ棚)はわずかに壁の方に傾斜していますが、日本の寝台車のような落下防止の帯がなく、まさに「棚」状態なので、ひやひやしながら寝たものでした。
日本の夜行寝台との大きな違いは車両まるごと車掌の管理下に置かれることにあります。車掌は乗客全員のチケットとパスポートを預かり、国境通過の際などに眠っている乗客に代って手続きをしたり、下車駅に到着する2、30分前に起こしに来たりといったサービスをします。私が嫌だったのは、車両と車両の連結部分に鍵がかけられることで、それは多分座席車からのタダ乗りを防ぐためだと思うのですが、監禁状態とあっては火事にでもなった時どうなるんだと不安でした。
夜行列車は減りましたが、現在でもクシェット車は走っています。今がどうであるかは不明、料金など下の記述はもちろん当時のものです。
1983年12月23日 ハンブルグ(20:55) − ミュンヘン(7:22) ALPEN EXPRESS
「アルプス急行」(TABLE 38)。典型的な国際列車で、私はミュンヘンで降りましたが、列車はその後オ-ストリアを走り抜け、イタリア領に入って14:25にヴェローナに到着。ここで二手に分かれ、一方は夕方にべネツィアに、もう一方はボローニャ、フィレンツェを結んで21:12ローマに到着
1983年12月25日 シュツットガルト(21:20) − プラハ(8:30)
この日の午後私はザルツブルグにいて、夜行列車でプラハに向かう積りであった。プラハへの出入りはニュールンベルグが便利であるが、直行すると深夜まで同駅で時間を潰さなければいけないことになる。で、シュツットガルトへと回り道をして乗ったもの。ところがこの列車、大半の車両がベルリン行きかニュールンベルグ止りで、プラハに行くのは一両のみ。しかも“MAP”上、細い実線(secondary
railway)で示されたマイナールートに入っていったりする。多分夜行列車としての本線が別にあって、どこかで合流するのだろう。翌朝プラハに着いた時は長い編成になっていた。このやりくりをCOOKで調べようとしたが、面倒になって放棄。上のALPEN EXPRESのようなヨーロッパ大陸に太い線を描くような夜行列車もあれば、こんなひねくれた夜行列車も走っていたんですね。
初の東欧入り。国境管理は、ドイツ側では例によって簡単。少し走ったチェコ側の国境駅Chebでは長く停まり、パスポートやビザのチェック。強制両替(一日当たり30DM)もあってよれよれのお札を渡される。など。列車の内外を警察官とも兵士とも思われるのがうろうろしてモノモノしい。なおCheb−プラハ間の鉄道運賃は32.1DM(当時1DMは90円位)であった。
1983年12月28日 ウィーン(0:00) − インスブルック(8:30)
プラハを午後出た列車がウィーン・フランツヨーゼフ駅に着いたのが夜9時半。例によって“駅前旅館”的安宿があるだろうとタカをくくっていたところ、駅周辺は暗く、路地を曲がってもホテルの看板が見当たらない。大いに焦って人に尋ね、中には親切にもスチューデントホステルまで連れて行ってくれた人もいたが、いずれも満室であったり、冬期休業中であったり。泣きたい気分で駅までの長い道のりを戻りつつ、これしかないと思ったのが西駅への移動。道の真ん中の誰もいない停留所でいつ来るとも知れぬトラムを待つのは心細かったが、ウィーンの中央駅である西駅に日付が変わる前に到着、幸運なことに表記の夜行列車が一本残っていたのでした。ヨーロッパで泊る場所が見つからないということをあまり経験したことがなく、この日のことは良く覚えています。
列車は空いていて、コンパートメントを独占。座席をひきだしてベッドを作り、大の字で寝て行きました。翌朝目が覚めて、見事な雪景色に感激。その場のちょっとしたことで、予想もしていなかった展開が次々に目の前に現れるのは旅のだいご味ですね。
夜明け直後の雪景色の中を行くウィーン発バーゼル行きの夜行列車
1984年 1月15日 ジュネーブ(21:28) − PORT-BOU(5:47) HISPANIA
2週間以上夜行泊がないのは、この間イタリアにいたため。当時、イタリアの夜行列車は泥棒が横行するイメージでした。
ジュネーブ発の夜行は2年前のマルセイユ行きで懲りている(出発するときはすいていて、フランス領内に入ると混む)ので、コンパートメントの窓側の向かい合う二つの座席を引き出してベッドを作って横になり、後は誰が入ってきても知らんぷり。
翌朝、周りが静けさに目を覚まし、慌てて通路に出てみると誰もいない。列車はとうにフランスースペインの国境駅PORT-BOUに到着していたのでした。イベリア半島は他のヨーロッパ諸国と線路の幅が違うので、通常は国境駅で乗り換えとなる。PORT-BOUは太平洋側の国境駅IRUNと共に旅行者に名を知られることになる。珍しくパスポートにスタンプを押されて、スペイン側のホームに停まっているバルセロナ行きに乗り込む。
1984年 1月17日 バルセロナ(20:20) − マドリッド(9:35) COSTA BRAVA
「素晴らしい海岸」という愛称の列車。それとも固有名詞かな。
この列車が私のクシェット初挑戦。料金は740pts(約1200円)。オスタルのシングルルーム一泊がこのくらいの値段のスペインではあるが、やはりこの値段で楽に寝て行けるのは有難い。座席車であれば多少早めに行って席を確保したり、混み具合に気をもんだりしないといけないが、予約があるので出発間際までカフェでゆっくり旅日記を書いておりました。