[ 80年代バックパッカーの風景]

鉄道旅行の愉しみ

(その9)夜行列車(4)

 80年代後半です。社会人になっており長い旅ができなくなっています。

 

1985年 9月16日  ULM(22:15)  - パリ・東駅(6:44)  ORIENT EXPRESS

国際列車」の項で紹介した「オリエント急行」。寝場所を求めて長々と続く列車を物色しつつホームを歩く。他の車両は明るくきれいで、コンパートメントにも何人か入っているのに一両だけ暗くてガラガラの車両があった。これはルーマニアかハンガリーの車両に違いないと嬉しくなって乗り込む。通路に3つ4つ薄暗い電灯がついているだけで、コンパートメントの中は真っ暗。そのひとつに入って見るとシートは硬く、すえたような臭いがある。エキゾチックなムードにすっかり愉快な気分となり、シュラフを出して横になる。

 

1987年10月30日  ルクソール(0:30)  −  カイロ(16:00)

「カイロの男達(その6)」の夜行列車。2等の座席を確保している。硬券の裏にボールペンで書かれたエジプト語を人に読んでもらいつつ、自分の車両、自分の座席にたどり着く。オープンスタイルの座席は、2等といってもかなり窮屈。なかなか寝られないので思い切って通路に横になる。行き来する男達のガラベーヤ(アラブ服)の裾のひらひらが頬に当たる。トイレの惨状などを思い浮かべ、これは相当汚い状況なのではないかと思ったが、眠ることを優先した。

 

1988年 6月26日  ストックホルム(17:30)  −  ナルビク(17:00)   NORDPILEN

オープンスタイルの客車の北欧らしく木材がふんだんに使われた洗練された内装に感心。針葉樹林や湖が次から次へと姿を現すタイガの風景は美しいのであるが、何しろそればっかりなのでしまいには飽きてくる。翌朝目が覚めても景色は変わらず、うとうとしたり、本を読んだりしながら時間を過ごす。車両の居住性の良さに救われた。

FH040020.jpgタイガ(針葉樹林帯)を行く

 

1988年 6月29日  キルナ(20:30)  −  ストックホルム(16:00)

ラップランドの真ん中で徐行を繰り返していた列車がついに動かなくなって、苦しい時間を過ごしたのであるが、幸い最後に停まった場所が道路の近くで、旅客は線路を越えて差し向けられたバスに移動。キルナに到着するとストックホルム行きの長距離列車が仕立てられていた。手際の良さに感心。

 

FH040023.jpg日が沈んでいく

 

1988年 6月30日  ストックホルム(21:30)  −  コペンハーゲン(7:00)

出発してすぐどこかの駅で列車が長く停まる。何となく不穏な空気に寝かかっていた体を起こすと、声を限りに叫ぶ女の声。やがて裸足の姿がホームに現れ喚き続ける。次いでこれを押さえつける男が登場。次いでパトカーが到着して警官が歩み寄る。ホームに転がって動かなくなった男には手錠が掛けられていた。この騒ぎで列車は一時間ほど遅れる。改めて横になったものの何か異様な感じがして、うつらうつらとしか寝られない。先ず第一にいやに古ぼけた車両。昨日までのような北欧らしい美しい車両と大違い。第二に妙な連中が大量にいる。何故か知らないが汗臭い連中がひっきりなしに通路を行ったり来たりする。浮浪者の集団の中に紛れ込んでしまったような感じだ。(ここまで書いてきてこれは以前に書いたことに気付きました。以下「北欧について」にて)

ヨーロッパの列車としては例外的だと思うのだが、毎晩あんなことをやっているのだろうか。

 

1988年12月24日  チューリヒ(16:10)  −  ウィーン(6:00)  ALPENRHEIN

日本からのフライトに続いての移動で、すいているのをいいことに窓際の向かい合わせの席を引き出して早くも眠る体勢。オーストラリア領内に入ると英語を話さない男がコンパートメントに入ってくる。きいてみるとユーゴスラビア人とのこと。その後停車するたびにどんどん乗ってくる。断続的に眠り続けたが、深夜どこかの駅で大勢降りる気配。関係ねえやと目を閉じていたが、ふと気付くと車内がシーンと静まり返っている。こりゃまた乗り換えかと慌ててザックを担いで混雑するホームに降り、通りかかった車掌にウィーン行きはと尋ねると今乗ってきた列車を指す。ではこの人たちはと訊けば、皆ユーゴスラビアに行くのさ、とのこと。何のことはない、列車にはオーストリア人は殆ど乗っていなかったことになる。出稼ぎ移民の帰省移動ということなのか、ホームの人たちは皆大荷物である。やがてガラガラとなった列車がウィーンに向かって出発した。

 

1988年12月29日  スプリット(20:50)  −  ザグレブ(5:20)  MAESTRAL

ザグレブで購入したスプリットへの往復切符は片道8時間の移動にして何と500円(21120ディナール)。この国に入っての最初の両替で80USドルが40万に化けたのに驚かされたが、2年後には内戦状態となるこの国の経済はすでに混乱しているようであった。日記によるとスプリット始発のこの列車は夏場、ワルシャワまで行くとある。そうだとすると、プラハやブダペストなど東欧主要都市を結んで地中海の町スプリットを目指す東版バカンス列車だったのかも知れない。残念ながら、この時のCOOKはどこかに行ってしまっていて、一番近い90年版で調べてみたが、それらしい列車もMAESTRALという愛称を持つ列車も確認できなかった。

 

FH010009.jpgザグレブ中央駅(左の灯りはクリスマスツリー)

 

1988年12月31日  リュブリャーナ(23:15)  −  マンハイム(11:27)   MOSTAR-DALMACIJA

この列車のことは「聖夜(の5)」で書いているので省略。西独に入って朝を迎え、アウグスブルグ、マンハイムと乗り換えて昼過ぎにはフランクフルトに着いている。カフェやファーストフードの並ぶ西独の駅の明るく現代的な構内は、ショッピングセンターの中にいるかのよう。昨日まで過ごしていた東欧の古めかしい駅舎の記憶が急速にかすれていく感じであった。

 

FH020016.jpg

 

以上が私の80年代の夜行列車乗車全記録であります。この頃はかなり頻繁に旅に出ており、ちなみに同じ期間の国内での夜行列車利用回数を調べてみると何と51回。我ながら良い時代でありました。ヨーロッパの方は、遠ざかった時期もあって、その後の夜行列車の利用は数回程度にとどまっています。

 

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