ザグレブ

(データ : 1988年12月)

「石の門」の内部

くぐってみると内部は宗教的な装飾が施され、

一角では、ロウソクの炎がいくつも揺らめいていた

 

◇クロアチアについて

解体した旧ユーゴの共和国の中で、スロベニアに次いで2番目に西欧に近いのがクロアチア。スロベニアはEUに加盟済みだが、クロアチアは申請中。(多分)旧ユーゴはこの2カ国に関しては西欧に近い感覚で歩けると思う。クロアチアの南西側国境はボスニア=ヘルツェゴビナとセルビア=モンテネグロ。コソボ地区あり、アルバニアありで旧ユーゴは南下するほど冒険の域に近くなる。

クロアチアの首都ザグレブは、クロアチアの中でも北寄り。西欧からのアクセスは、ミュンヘンからでもウィーンからでも夜行に乗れば翌朝着く距離。

 

◇ザグレブについて

駅を背にまっすぐ、公園のようになっている3つの広場を抜けていくと1kmほどで町の中心共和国広場に至る。観光の中心はこの背後に広がる丘「上の町」に固まっている。ワッペン模様のモザイク屋根の聖マルコ教会(東欧編の表紙の写真)や中世の石の門など。また、共和国広場近くには2本の尖塔が印象的な聖シュテファン寺院がある。

 

ホテル・セントラルの部屋からザグレブ駅を見下ろす

私が訪れた12月は、ザグレブの朝夕は深い霧の中にあった

左側微かに見えるイルミネーションはクリスマスツリー

霧の向こうの灯りを眺めつつ年賀状を書いておりました

◇ユーゴスラビアについて

早いもので20年の月日が経ち、この間ベルリンの壁の崩壊と内戦の泥沼を経ているから私の体験は「旅情報」としては賞味期限が過ぎているのだろう。

かつてユーゴは、東欧諸国の中では西側に開けた感じがあり、またユーレイルパスをフル活用する「ロンドンin―アテネout」のパターンではブリンディシ航路(⇒ギリシャについて)をとらない限りユーゴを経由するということもあって比較的情報が入りやすかった。

しかし民族の問題やら宗教の問題やらが複雑で「火薬庫」と呼ばてきたこの地域にあって、結果的に見ればユーゴスラビアという形自体が危うい均衡の上の産物だったことになる。内戦の中で伝えられた悲惨な出来事は、ヨーロッパ人種の本来持つ残虐さが民主主義が勝利した現代社会にあっても容易に蘇るのだということを再認識させたし、EU加盟国を地図で見てみれば一目瞭然(http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/eu/map.html)、旧ユーゴの一帯が白地図のままであるのは皮肉なことである。

 

 

青空野菜市場に出くわした

(「上の町」から聖シュテファン寺院に向かう途中)

 

◇インフレーション

これも今となっては変わっているのかもしれないが、当時のユーゴスラビアのインフレはひどかった。私が行ったときも、80ドル両替すれば渡された40万ディナール分という途方も無い金額の札束に驚き、尋ねた宿代は前年の5倍になっていて、すぐ変ってしまうからだろうと思うのだが、色々なものの値段表示が手書きであった。ただ、為替が調整機能を果たすのは経済の教科書通りで、円ベースではなお物価の安い国であることには変らず、「泥棒よりインフレに注意」は実感としては当たっていなかったと思う。

 

◇宿について

これも変っているかもしれないからあまり書かないが、駅前にセントラルと言う名の手頃な宿がある。YHも近くにある。YHは日本でもヨーロッパでも不便なところにあることになっていて、駅のそばにあるというのは珍しいのだ。またこの一帯、食料品店やセルフレストランなどがあって何かと便利であった。

 

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