[ 80年代バックパッカーの風景]

とりあえず「バックパッカー交遊録」と仮題を付けてみたものの、「交遊」は大袈裟かも知れません。

旅は出会いと別れの反復なので、中には強く印象に残るものある、その個人的記録です。

「忘れ得ぬ人々」(国木田独歩)というのもありますが、あれはまた高尚典雅というか独特の世界だからなあ。

 

SCENE 11 タンジールにて  (1984年1月)

 

アルヘシラスのジブラルタル海峡を渡る船のターミナルビルに入ると、まだここはスペインでありながら、アラビア文字やアラブの民族衣装が目に入って緊張が一気に高まる。今なら世界中のとんでもない秘郷までツアーが組まれ、モロッコぐらい訪れた経験のある人は山ほどいると思うけれど、当時、ヨーロッパ周遊中の個人旅行者にとってアフリカ大陸に渡ることは、魅力的なちょっとした冒険であった。心細いのは欧米人も同じと見えて、スペインの出国審査の際、居合わせた私を含む4人のバックパッカーが、その後も一緒に行動することになる。カナダ人のジョンとアメリカ人のジェニーは夫婦。二人とも教師で、ニューファンドランド島の同じ学校で教えているのだが、先生は彼ら二人だけとのこと。マイケルはアイルランド人で、もう長く旅を続けているそうだ。船室内は、他に2、3組我々のようなバックパッカーのグループがいて、あとはだいたいアラブ人のようであった。船がタンジール港に入ると"English speakinpeople”同士、自然と集まってきて、戦々恐々といった面持ちで接岸を待つ。

 

我々は“自称ガイド”の群れの中に投げ込まれた餌のようなものであって、口ぐちに話しかけてくる複数の“自称ガイド”を引き連れて歩き、抵抗できていたのはほんの数十分で、敢え無く“自称ガイド”を“雇う”こととなった。この男、自分はオフィシャルガイドだと言い、写真付の身分証明書を見せるが、怪しいものである。ジェニーはニューファンドランド島などという世間離れした暮らしをするにふさわしく純粋なところがあって、後で“He said he was a official guide. But he is NOT a official guide.”と言ってやると目を丸くしていた。我々4人はこの男に案内されてカスバの中を歩き回ったが、そのことは本編でいくつか書いたので、ここではこの男に紹介されて宿泊することとなったホテルでのことなど。

 

ガイドの言いなりになっているとロクなことはないということになっているが、ここは、マイケルがモロッコに住む友人から受け取った手紙で推薦されていた宿であることが判明。実際、ツインひとり25DH(700円)の部屋は快適で、外の熱気や混乱が嘘のように静か。スペインで、シャワーのお湯も出ないような安宿を渡り歩いていたのと大違いである。しかし、ここはやはりモロッコだなと思わせたのは、フロントにいた牛乳瓶の底のような眼鏡をかけたアリという名の若い男。信用できるような、できないような、どちらとも取れる感じが面白い。ヒマなのか、マイケルとシェアすることになった部屋に話をしに来る。話というのはいろいろで、モロッコのことを教えてくれたりもするが、タバコをねだったり、闇ルートに流す話しを持ちかけたりもする。マイケルはアリからハッシッシを手に入れて吸い始めた。モロッコはかなり安いそうである。アリは12時間働いて日給28DH(800円)だそうで、だからこうしたブラックマーケットで小遣い稼ぎをしているのだろう。

 

べたべたっとした感じのコミュニケーションの取り方がアラブ式であるらしい。「ヨーロッパ1日4千円の旅」に掲載されていたレストランを宿の近くに見つけ、夕食をとりに4人で出かける。このRestaurant Economiqueは、ジョンらが持っていたガイドブックにも出ていて、そこに経営者の息子は英語を話すとある。その息子が出て来て横のテーブルに腰掛け、べらべらしゃべり出す。あなた方は私の友達だといった調子でなかなか止まらず閉口した。清算が済んで席を立つと“息子”は、ぜひこの店を友人に伝えてくれと我々に名刺を数枚ずつ渡し、我々は彼にチップを渡して店を出た。

 

302.jpg1984年1月 タンジールにて

 

翌朝、快適なベッドでゆっくりしていると、アリが大きな盆にパン、バター、ジャム、チーズ、コーヒーを載せて部屋に来る。外に出ればたちまち声を掛けてくる輩に付きまとわれるが、ここにいる今は静かで、優雅な朝食であった。マイケルの話を聞いて初めて知ったのであるが、アイルランドは英語とまったく異なる言語を持っているのであった。話しているうちに昔地理で習ったケルトという単語を思い出したが、実際私はアイルランド人と話すこと自体初めてであったのである。征服者、支配者であった英国に対する恨みつらみは大きく、今でもたいていのアイルランド人は英国を嫌い、しかし経済面など英国との結びつきが強いから皆仕方なく英語を話すのだと言っていた。彼は財布から1ポンド札を抜き出し、一面にデザインされている文字を示して、これがアイルランド語だ、覚えておいてくれと私にくれた。

 

タンジールはマグレブ世界への入り口で、通過するだけの町である。私は午後のフェリーでヨーロッパに戻るが、ジョンとジェニーはアルジェリアのビザを取りに首都ラバトへ、マイケルは“気違い広場”のマラケシュへ向かう。どちらも同じ11時に出る長距離バス。雑然とするC.T.Mバスターミナルに彼らを見送る。全ての荷物は屋根の上に載せられる。その作業を見ながら彼らと最後の立ち話。ポルトガルに向かうと話すと、ジェニーがアルブフェイラに行くと良いと教えてくれる。発車の時間となって固い握手でバイバイ。私の言葉は“Be careful, be healthy, and have a nice traveling.” これはモロッコの内陸部へ、そしてアルジェリアへと困難な旅を続ける彼らへの心情であった。

 

 

 

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