マグレブの入口   タンジール

(データ:1984年1月)

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タンジールのメディナを遠望する

当時の「歩き方」ではカスバとも混用、併用されていた

(正確には同じ意味ではないらしい)

フェリー乗り場は右手に伸びる桟橋の先にある

なお、タンジールというのは英語読みで、

現地の言語(仏語)ではタンジェ、スペイン語読みはタンヘル。

表記法もTangerTangiersTanjahと複数あるようだ。

 

◇メディナを歩く

マグレブ都市の魅力は何といってもこれ。スペイン周遊中に日程の余裕があれば、是非タンジールに渡り、メディナ体験を。メディナは入り組んだ細かい道の集積である。ジェラバを着た男や女が道に野菜や果物を広げている。薄暗く、臭気が立ち込める中様々な肉を並べたり、ぶら下げたり、香料やスパイスのようなものを売っていたり、ばあさんが道の真ん中で台に平べったいパンを並べて売っていたり。

ジャポネ!とかコニチワ!とかしょっちゅう声が掛かって落ち着かないものの危険という感じはしない。入ったら出て来れないなどと言われるメディナであるが、タンジールのは規模も小さく、また各所各所で海が見えるので方向を失う心配がない。

 

◇新市街では浜を推奨

タンジールはマグレブ世界の入口にすぎず、ここに長期滞在する旅行者はいないと思う。本格的にモロッコを回るなら、フェズへ、マラケシュへと長距離バスに乗り継いでいくし、私のようなヨーロッパ旅行中のちょい異文化体験派なら複雑な思いを抱きつつも1泊程度でアフリカ大陸を後にすることになる。このとき、メディナを十分歩いた後でまだフェリーの出発まで時間があるなら、広い砂浜に出て、メディナや海を眺めることをお勧めします。(上の写真、および北アフリカ編表紙の写真)

海の色、太陽光線の強さ、吹き抜けていく熱風にアフリカを感じます。森本哲郎氏の著作でサハラ砂漠に憧れていた私としては、大勢がサッカーに興じる砂浜をこれがサハラから続く砂だと踏みしめて歩きました。

 

◇食べ物について(旅日記から転記)

「腹が減ったと伝えると、小さな食堂に連れていった。それはこのガイドが案内した唯一良い場所だったのかも知れない。コンクリートの壁むき出しのそれこそ牢屋の如きところで、汚いテーブルが三つある。ぼくらが食べたものはbasar(バイサorベイサと発音していた)という濃い緑色をしたスープで、ガラスの丼の形をした容器にスプーンをつっこんで出てきた。それとカスバのあちこちで売られている大きな円盤型をしたパンを切ったもの。これはテーブルの上に直接のせられた。このスープは、これまたカスバでよく売られている赤いトウガラシのような粉をかけて食べるのだが、何かの豆をすりつぶして作ったような味であまりおいしいものではない。パンはちょっと変わった味で良かった。地元の人も入ってきてすぐに満員になった。この二つがこの店で売られている唯一の料理である。調理場のようなものはなく、ただこれもコンクリのカウンターの向こうにスープを入れた大きな鍋が見えるだけ。味はともかくアラブのイメージがぴったりくる面白い店だった。(2DH)」

 

◇食べ物について(その2)

新市街では、「一日4千円の旅」に載っていたレストランで、クスクスやタジンを食べた。いずれもマグレブの代表的料理で(森本氏の旅にも効果的に登場する)、いずれは本場でと思っていたのだ。

しかし、期待したほどではなかった。クスクスの小麦粉を蒸した粒が食べにくく、パリのアルジェリアレストランで食べた方がよほど美味い。タジンは肉と野菜の煮込みで美味しかったが、こちらは逆にヨーロッパでも食べられる味と思われ、拍子抜けした。

 

◇トイレについて

上記のレストランでも水の流れないアラブ式であった。しかし、傍らに水オケ(本来は左手を流すためのもの)があり、紙もおかれていた。

◇アクセス

ヨーロッパ大陸からアフリカ大陸に渡る最もお手軽なルート。スペインのアルヘシラスからフェリーに乗れば、ジブラルタル海峡を経て3時間後にはタンジールに到着している(時差があるので注意)。入出国や両替などの手続きは当時もさしたる困難はなかったが、問題はその後。フェリー乗り場のゲートをくぐるや、来るわ来るわ、悪名高い「自称ガイド」が寄ってくる。断ろうが振り払おうが引き下がる相手ではなく、常に何組か引き連れて歩いている格好。

フェリー乗り場はメディナ(旧市街)の下と言っていい位置にあり、メディナの入口になるバフルの門はすぐそこ。新市街やCTMバス乗り場も近い。メディナも長径にして500mぐらいで、いくら迷路状とはいえ、迷うようなものではなく、「自称ガイド」は初めてアフリカの地を踏んだ旅行者の不安に付け込む商売なのであった。「歩き方」近刊によると、観光立国を目指す政府の取り締まりが強化されて、「メディナにたまにいるぐらいで、ほかはまったくといっていいほどいない」そうなので、そう神経質になることもなさそうです。

 

◇「自称ガイド」体験記

なにしろ不安なのでフェリーの中でモロッコ初心者が自然と集まった。私の他に、カナダ人、アメリカ人、アイルランド人という構成。欧米人は英語が分からないふりをする訳にいかないので、当然の如く「自称ガイド」につかまる。その後印象的な出来事がいくつも起きたのであるが、当時の日記から2、3エピソードを転記し、場の空気を伝えたいと思います。

 

(「自称ガイド」につかまる)

「・・・このまま彼(注:さっきから離れようとしない少年)についてカスバに入っていくのはどんなものだろうかと相談を始めたら、別のガイドが話しかけてき、さらにはもうひとり、といった具合で、我々は完全に彼らのエジキになっている。面白いのは、彼らがエモノの取り合いを始めたことで、どうせ皆デタラメな話を含んでいるから、互いにそこをついて言い合いをしている。先着権のあったガキはやはり大人にはかなわないようで、とうとう負けてしまった。・・・」

 

(土産物屋にて)

「その後、じゅうたんや革製品などを売る店に連れて行かれた。まず店の隅にある小さなテーブルに座らされ、“アラブのウィスキー”ミントティーで接待される。(中略)最初は世間話、次にじゅうたんをいくつも広げてみせ、あるいはジェラバを出し、着てみろと言い、最後は当然買えとくる。向こうもなかなか上手で、うまい具合に4人バラバラにする。店内には数名の店員がいたが、みな英語を巧みに話し、多少は笑顔を見せながらもしつこく迫る。ずっと断り通したら最後は脅迫めいた口調になって、その対応にしんどい思いをした。・・・」

 

(支払い)

「もう少しカスバの中を歩きまわり、バフルの門を出たところで、オシマイということになる。何となくチップを渡す雰囲気になり、皆で小銭を集める。ジョンがいくら渡せばいいのかと聞くと“俺はオフィシャルガイドだから、あなた方が払いたいだけ払えばよい”と言うのだが、ジョンが10DH余り(注:当時のレートは1DH=約28円、宿の受付をしているアリの日給は12時間働いて28DHという話だった)渡そうとすると少なすぎると拒む。軽い笑いを絶やさないところがすごい。結局ひとり6DHずつ払った。(中略)ガイドがいなくなると別のガイドが次から次へと寄ってくる。まっすぐにホテルに戻る。実に疲れた。」

 

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グランソッコから港の方に降りていく道

メディナはこの左手に広がる

残念ながらメディナの中で写真を撮る勇気がなかった


 

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