オーストリアについて   

 

オーストリア人は何語を話しているか?

といえばそれは多分オーストリア語だろうと思うのだが、もし誰かに「実はドイツ語なんですよ」と言われれば自信がない。どうもオーストリアというと他の国に比べてマイナーな感じで、良く知らないというところがある。中学校ではアルプスの国であり永世中立国ということでスイスとセットで習ったが、なんとなくスイスの添え物という感じであった。「チロル」のイメージはあるにしても、良くいえば渋い脇役のような国、なんというかヨーロッパの国を数え上げる時に忘れられそうな国である。かつてこの国の通貨はオーストリアシリングといった。国境で両替をしたとき、この国が自前の通貨を持っているという当たり前のことに妙に感心した記憶がある。

 

◇ウイーン社会のイメージ 〜 2つのエピソード

オーストリアで大きな町というのは数えるほどしかなく、その中で都市と呼べるのはウイーン唯一つである。バロックの町、音楽の都、国際政治の舞台、その華やかなイメージはひょっとすると国より認知度が高いのではないかと思わせる位。 私の体験の中から、傑出した都市文化が花開いたウィーン社会を感じさせられた二つのエピソードを紹介したい。

一つは列車の中でのオーストリアの人たちとの交流。[町情報]で書いたが、オーストリアというのはヨーロッパ大陸にあって鉄道交通の十字路であり、夜行列車でオーストリア国内を縦断したり横断したりすることがやたらと多かった。で、同じコンパートメントに居合わせた人たちと長い会話をすることになるのだが、若者から大人まで静かで知的な感じの人が多かった。南欧のようにワインを回し飲みしてわいわいということは決してなく、反ナチスなどの社会的な話題だったり、モーツアルトがどうのこうのといった芸術話だったり。東洋人バックパッカーたる私に親近感と敬意をもって接する態度は、ヨーロッパ的というか観念的な人種だなと感じさせられた。

もう一つのエピソードはこれまた夜行列車で早朝ウイーンについて、西駅からリング目指して歩いていたときのこと。向こうから歩いてきた男に道を尋ねた。彼はエジプト人でアレキサンドリア出身だという。このとき私は半年前にエジプトを訪れていて、懐かしさから少し立ち話になった。その中で彼の「この街の人は冷たくて、この街も好きじゃない」という言葉が印象に残った。確かにエジプト人のあのべたべたした付き合い方はこの町では到底受け入れられない種類のものであろうと思われた。冷たさは洗練さのうらがえしなのだろう。

 

←ウィーン・シュテファン聖堂

 

 

☆増え続ける移民、住宅、教育などその存在が生む社会的負担、低賃金労働を彼らに依存することによる失業率の高止まり等々、移民の問題はヨーロッパ社会が抱える負の側面である。この文章は05年11月に書いているが、自由を掲げる国フランスで暴動騒ぎに歯止めがかからず、夜間外出令がでるに至ったのは驚きであった。しかもその第一号はあの静かな町アミアン。旅行者の目に見えるものは限界がありますね。

 

☆一国の中での都市文化の突出といえばそれはまずパリだと思うが、第二第三の都市を寄せ付けないという点ではウィーンはパリ以上のものがある。http://www.euroassist.de/austria/9bundeslaender.htmを見ると文字通り桁違い、全人口の5人にひとりがウィーンに住んでいる!)

 

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