[ 80年代バックパッカーの風景]

とりあえず「バックパッカー交遊録」と仮題を付けてみたものの、「交遊」は大袈裟かも知れません。

旅は出会いと別れの反復なので、中には強く印象に残るものある、その個人的記録です。

「忘れ得ぬ人々」(国木田独歩)というのもありますが、あれはまた高尚典雅というか独特の世界だからなあ。

 

SCENE 5 パリにて   (1982年9月)

 

ヨーロッパで知っている人に偶然出会ってびっくりということが一回だけあって、それも正にバックパッカー、北海道関係の旅仲間でした。

 

9月初め、ユーレイルパスを失効した私は初めての欧州訪問の最後の一週間をパリで過ごしていた。話に聞いていた通り、パリにはヨーロッパの他の町にない、何か解放されたような独特の空気があり、とりわけカルチェラタン界隈はすっかり気に入っていた。安さと快適さを求めてカルチェラタンの安宿を転々としつつも、「パリ暮らし」の感覚を得ようと、一日の午前か午後リュクサンブール公園の例の“移動式ベンチ”で1,2時間過ごすこと、食事はクリュニー交差点(サンミッシェル通りとサンジェルマン通りの交点)に当時あったセルフレストランで食事することなど、生活パターンを決めてパリ滞在を満喫していた。

 

386.jpg

 

 

 

 

 

リュクサンブール公園と“移動式ベンチ”

 

二つの椅子を向かい合わせにして

足を投げ出すのが定番

天気が良いと公園の人出は多い

誰かが立ち上がって去っていくと、

その椅子はすぐに別の人のものになる

 

 

 

 

パリに着いた日の午後、初めてリュクサンブール公園を訪れたときのこと。ベンチに足を投げ出して、この空気こそがパリだといたく感心していたところに向こうから日本人の男女二人連れが歩いてくる。その女性の方が、知り合い(以下Tさん)で互いに驚く。飯でも食いながら話そうということになり、彼らの提案でポールロワイヤルにある学食へ。二人のうちのどちらかがカルネ(回数券)を持っていて、カルネ一枚5フラン(当時のレートで200円)でパン、ハンバーグ、チップス、サラダ、リンゴという典型的な学生食堂の食事を取る。学食に足が向くというのはバックパッカーの行動であり、聞いてみると男性は北アフリカを回ってきた由。Tさんの方もアムステルダムからアテネ行きのヒッピーバスに乗ったというから相当なもの。彼らに比べると私が通ってきたルートは穏やかで、旅の終わりにしてまだまだ見残したものがあるなと悔しく感じられた。その後、Tさんとリュクサンブール公園に戻り、しばらく話していたが、雨が降り出してそれぞれの宿に引き上げる。

 

2日後の夕方、ゲイルサック通りの果物屋ですももを買っていたところにTさんが通りかかる。なかなかこれという宿に当たらなくてとこぼすと、「それなら私の泊っているところにおいでよ」と教えてくれたのがホテル・ゲイ・ルサック。翌朝、荷物を持って移動。丁度Tさんが朝食を取っていた。主人に3泊すると告げるとOKの返事。朝食付き一泊55フラン、シャワー8フラン。その後何回も泊ることになるこの宿との初交渉であった。

 

Tさんは朝食時間が遅く、朝はすれ違いであったが、夜は私の方が戻ってくるのが遅く、自分の部屋で一休みした後、Tさんの部屋に出かけて行っては11時頃まで話をしていた。相部屋の宿で同室者とその日の出来事を話すことをこれまでもやってきたが、これを日本語で出来るのは有難く、しかも旅を知っている人と話すのはとても楽しかった。Tさんの部屋は私の部屋の真下で造りが同じであるのだが、滞在が数日に及ぶためか、質素な部屋を本当の自分の部屋のように使いこなしていた。所持品を使い勝手がいい様に並べている棚を眺めつつ、部屋も住む人次第だなと思った。

 

◇ ◇ ◇

 

当時の北海道は長期旅行者が多く、学生であった私は周遊券の有効期間を使い果たせば帰っていたが、数か月の単位で旅をする者、冬期に札幌でバイトをして年を越す者、果ては北海道好きが高じて民宿を始めてしまう者など、いろいろな連中がいた。長くうろうろしていると、気に入った場所に長く留まることも多く、自然と旅行者同士の知り合いも増え、情報は飛んで、横のつながりが生まれる。一緒に移動したり、テントを張ったり、くっついたり離れたり、また出あったりしながらそれぞれの旅を続けていた。Tさんも私もある時期あるネットワークの端に引っ掛かっていたのである。

Tさんとはパリで会ったのが最後となった。皆から「とみさん」と呼ばれていたが、本名は知らずじまい。

 

 

430.jpg

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夏の夜のパリ(カルチェラタンにて)

奥にエッフェル塔を遠望する構図は

多分パンテオンを背にして撮ったものと思われる

 

 

 

クリュニー交差点にあったセルフレストランは、その名もラテン・クリュニー。ロケーションが気に入って、数えてみると短い滞在期間にして何と8回も通っている。途中から支払いの時にレジ係の女の人とボンソワールと挨拶するようになった。それまで食料品店でパンやハムを買って公園や宿で食事というパターンが主であったから、終わりが見えるパリでは食事については贅沢しようと思っていたのである。所持金を残りの日数で割れば一日の予算になる。それがそうかつかつだった記憶はないが、この頃は普通のレストランに入る勇気はなく、セルフレストランの、肉をソースで煮込んだような料理、そういう温かい食べ物を食べられるだけでとても幸せであった。

 

関連ページ : Hotel Gay Lussac    カルチェラタンリュクサンブール公園

 

 

      共通編の表紙に戻る  トップページに戻る