[ 80年代バックパッカーの風景]
とりあえず「バックパッカー交遊録」と仮題を付けてみたものの、「交遊」は大袈裟かも知れません。
旅は出会いと別れの反復なので、中には強く印象に残るものある、その個人的記録です。
「忘れ得ぬ人々」(国木田独歩)というのもありますが、あれはまた高尚典雅というか独特の世界だからなあ。
SCENE 14 ルクソールにて (1987年10月)
エジプトという国は万事いい加減なところがあって、タハリール広場に面した旅行代理店でちゃんと予約した筈のカイロ行きのフライトも、ルクソールに着いた翌朝、エジプト航空事務所で念のために確認してみると、案の定、私の名前は登録されていないとの返事。係員が慰め顔で「あの代理店は良くないんだ」と言ってくれるのを後に残し、カイロ行きの夜行列車の座席を確保するべくルクソール駅に向かう。そこで会ったのがドイツ人のヨーク。不親切、非能率で、なかなか席を売ろうとしない窓口相手に彼と一緒に粘り、時間はかかったが明後日0:30発カイロ行きのチケットを入手。
同じ夜行列車に乗るのだから部屋をシェアしようということになり、ザックを取りに一緒に私が宿泊していたHORS
HOTELへ。その廃墟然とした外観にヨークは声を上げて驚き、自分が宿泊している宿に誘う。IBISというその宿は、ナイル河畔からウィンターパレスホテルの裏手を進んだTelevision Street という変な名前の通りの先にあった。観光客が行き来する地区から外れた小路でちょっと分かりにくい。安宿ということだったが、入ってみると意外にも設備がちゃんとしている。マネージャーのタイヤという男が出て来て、小さなロビーのソファでしばらく世間話。この男、親切でフレンドリーであるのだが、デニムのジャケットなぞ着て、無条件全面的親切エジプト人の雰囲気は無い。いまにも噛みつきそうな容貌のせいもあって、かなり胡散臭い印象。そのうちもう一人この宿の人間が話に加わる。背中の丸いこの男もアラブ人ながら、ちょっと国籍不明の感じがあり、表情を変えずにホモみたいな口調で話す。
以下は後でヨークに聞かされた話だが、タイヤは3カ月前にオーストラリア人の女の子と結婚して、間もなくオーストラリアに渡るそうだ。しかし彼はマネージャーといいながら昼間からぶらぶらし、やることといえば客引きぐらいのもので、あれでオーストラリアに行って何の仕事をするのかと。彼の嫁さんはすごくいい娘で、何であんな男と結婚する気になったのか分からない。昨夜も3人でディスコに行き、イスラム教徒の筈の彼は酒を飲み、どういう訳か勘定は俺が全部持たされた、等々。
部屋も清潔で近代的。何より一泊300円程度の料金でこの日の午後から翌日の夜行列車が出る夜まで使わせてくれたのだから親切、良心的と言っていい筈なのだが、スタッフの怪しさとのミスマッチが見事な奇妙な宿であった。
ナイル川の渡し船が接岸中
(東岸の船着き場にて)
日が暮れて宿に戻るとヨークは先に着いてガイドブックを読んでいた。我々が宿泊した部屋は、まん中で二つに仕切られているが、ドアがある訳でなく、ベッドに寝転びながら話が出来る。ヨークは31才で、看護師をしているそうだ。彼の生活とか、感じ方を聞いていると、典型的なバックパッカーとはちょっと違う印象。あのふてぶてしい程の積極性は無く、どちらかといえば神経質な、分別をわきまえた感じ。実際彼はバックパッキングではなく、肩から下げる大きなバッグで旅行をしていた。私はエジプト入国以来下痢に悩まされていたが、そのことを言うと、水に溶かしての飲む黄色い錠剤をくれた。職業柄か、いろいろな薬を持ち歩いているようであった。
夜9時を回り、飯を食いに行こうと外に出る。暗い夜道を歩いて向かった先は、ルクソール駅前のニューカルナックホテルの食堂。オムレツとスパゲティと紅茶で1E£程度と安いことは安い。量は少なめだったが、今の体調にはこれで充分であった。客の殆どは欧米人バックパッカー。ニューカルナックホテルというのはバックパッカーのたまり場として知られたところで、中には店の連中と顔見知りになっているグループもいた。どうせ安いのだからということでもないのだろうが、ここの会計は不明朗というか適当。文句を言う客もいて、それをまたここの連中が客をからかうような調子で応対するものだからむっとさせられている。ヨークは相席になった女の子達に気軽に声をかける。語学力の差ももちろんあるが、それより欧米人同士、話の仕方が分かっているのが見ていてうらやましい。
灯りの殆ど無い小さな駅前広場に、ガレーシュの御者達の焚き火の炎が暗闇に高く上がっている。店を出て幻想的な光景に見とれていると、別のテーブルで食事をしていた髭面のバックパッカーが声を掛けてくる。彼はJames Brown(どこかで聞いた名だ)と名乗り、一通の手紙を私に差しだして、日本に戻ったらこの手紙を投函して欲しいと頼む。道中で投函すると盗られてしまうと言うのだ。ハッシッシのような変なものは入っていないよと、封を開けたまま手渡す。風貌といい、話し方といい、かなり旅慣れしている感じであった。話を聞くと、この先さらにスーダン国境を超えて南下し、アフリカ縦断を果たすのだという。スーダンは半ば内戦状態にあったはずで、私には考えられないルートである。彼の無事を祈りつつ手紙を受け取った。
西岸の船着き場
◇ ◇ ◇ ◇
IBIS HOTELのスタッフ(というより、ごろごろしている連中)から山のような軽口を聞いたが、その中の一つ。“I don’t like tea, but I like after tea.”これはなぞなぞで、私の反応を見てはげらげら笑って正解するまで放してくれなかった。困った連中であったが、答え分かりますか?
JBから預かった手紙を失くす訳にいかず、貴重品袋に入れるまではしなかったが、盗難に会わないよう普段以上に慎重に行動しました。JBがしたであろう苦労とは比べ物にならない筈ですが、この後私にもドバイに数日足止めされるというトラブルが訪れたものの手紙と共に無事帰国しました。名宛人からは後で礼状が届き、JBとは、その中で使われていた表記です。その後JBの旅がどうなったかは不明。
ヨークとは翌日の夜行列車でカイロに行き、イスラム地区のイスラミックホテルでも同宿。翌日私はエジプトを後にしましたが、カイロの喧騒に苛立つヨークは、アスワンに向った筈です。
なぞなぞの答え I like you. (最初は、文意を考えて、こいつらまた酒を飲みたがっているのかと思いました)