北アフリカについて

 

私の北アフリカ体験は、モロッコ、エジプト、アルジェリアの3カ国、いずれも80年代のことであります

ヨーロッパと違って情報は入りにくいし、情勢の変化もあるので、本編は20年前の体験談としてお読みください

 

◇北アフリカの国々

ここで北アフリカというのは、モロッコ、アルジェリア、チュニジアのマグレブ3国とエジプトのことです。前者はフランスの統治を受けてフランス語が、後者はイギリスの統治を受けて英語が話されますが、アフリカといってもブラックアフリカでなくイスラム国家ある点、また地中海を共有していてヨーロッパ的な空気を一瞬感じる点共通しています。なおこの地域にはもうひとつリビアという問題国家がありますが、これは旅行の対象としては一般的でなく、従って鉄道によるチュニジアーエジプト間の移動は困難です。

 

◇北アフリカへの道

最も容易な北アフリカへのアクセスはモロッコのタンジールであり、アルヘシラスからジブラルタル海峡を渡る船に乗れば、3時間足らずのうちにアフリカ大陸に立っている。モロッコはイベリア半島を旅するバックパッカー達の頭の片隅にいつもありました。また、夜行列車でマルセイユに早朝着いたとき、恐らくはチュニスあたりからの船が到着したのであろう、百戦錬磨、不敵な面構えのバックパッカーたちが港の方から続々と歩いて来るのを新米バックパッカーであった私が感心して眺めていたこともありまし。ヨーロッパを旅する若者の多くにとって北アフリカはヨーロッパの延長線上にあったのです。

地図で地中海を眺めてみれば、チュニスなどシチリア島のすぐ先である。実際トラーパニから船の便があり、ほかにもナポリなど各地から船が出ている。これに対して、アルジェリアやエジプトは空路に頼ることになりそうである。

 

◇旅への動機

何といってもアフリカという未知の土地への期待。あのサハラ砂漠に続く場所に立てるという魅力は抗し難い。高校時代私は「人間へのはるかな旅」を始めとする森本哲郎氏の著作のファンであった。同氏は哲学科を卒業した旧制高校型の知識人で、本当のところ読んでもよく意味は分からなかったのであるが、未知の領域を目指す旅人としての姿勢や行動力に憧れたのである。「サハラ幻想行」などの著作で、タッシリやタマンラセットなどの地名を知り、俺も何時か、と思っていたわけである。しかし、その後アルジェリアには行ってみたものの、サハラは余りに広く、覗き見すら叶わなかった。サハラ行きは、命懸けは大袈裟にしても、真っ当な社会人にはちょっと冒険過ぎるかもしれない。サハラではないが、砂漠体験するならエジプトは比較的容易。あの国はナイル川がオアシスとなって何百キロという細長い緑地帯を作っているが、ナイルを背に歩き出せば周辺は砂漠。また私は行っていませんが、モロッコの内陸部の諸都市はアルジェリアよりずっと行き易い筈です。

 

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アルジェのカスバで

 

マグレブ3国とエジプトとでは街の様子がずいぶん異なる。マグレブ3国への動機は、私の場合、何といってもカスバの魅力にあります。カスバはイスラム都市の旧市街であり、メディナとも呼ばれる。以前のガイドブックでは、映画「望郷」でパリを追われた主人公が潜伏した云々のエピソードがつきもので、貧民窟、犯罪者の巣窟といった形容句、あるいは「入ったら出てこられない」といったトーンで語られていました。実際には、付きまとわれるとか声が掛かるといった面倒なことは多少あれ日中ならばそう危険を感じることもなく、珍しい風物に目を奪われつつ迷路歩きを楽しんでおりました。今やアルジェのカスバは世界遺産に登録されているようです。

 

 

◇安全について

悪名高いモロッコの「自称ガイド」は命まで取ることはありません。怖いのは宗教対立で、イスラムの国を歩く危険性を十分認識し、準備と覚悟の上で出かけることになります。私の訪問との関連では、タンジール入りした84年1月、その数日前にパンの値段が上がったことによる暴動が発生し死傷者が出ていた由。エジプトでは私も立ったハトシェプスト神殿で、その10年後に日本人を含む旅行者がイスラム原理主義者のグループに襲われ、60余名が命を落とすという惨事が発生しました。アルジェリアは私が行った87年は落ち着いているように見受けられましたが、その後、村ごと殲滅させてしまうような酷い内乱状態がしばらく続きました。いくら海外危険情報を見ていても、突発的に起こる事件に対処できる訳でなし、私などは、余程躁状態にでもならない限り、もうちょっと難しいかなという感じです。

 

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