[ 80年代バックパッカーの風景]

とりあえず「バックパッカー交遊録」と仮題を付けてみたものの、「交遊」は大袈裟かも知れません。

旅は出会いと別れの反復なので、中には強く印象に残るものある、その個人的記録です。

「忘れ得ぬ人々」(国木田独歩)というのもありますが、あれはまた高尚典雅というか独特の世界だからなあ。

 

SCENE 9  マドリッドにて  (1984年1月)

 

北海道あたりだと、大らかな気風があるせいか、旅先で土地の人と何かのきっかけで仲良くなって、そのまま一宿一飯の恩義にあずかって、といった話題がちょいちょいあったような気がするが、私はそれを一度ヨーロッパで経験しました。

 

バルセロナ・サンツ駅で出発を待つマドリッド行きの夜行列車で自分のコンパートメント(クシェットを予約していた)を探していたときに声をかけてきたのがその田中さん。私より10歳程度年長か、中肉中背、眼鏡をかけていて、まあ典型的日本人かと思われた。一杯いきましょうということになって、barに移動、列車に揺られながら12時近くまでワインを飲み続ける。なんでもヨーロッパ各所を転々とした後、今はマドリッドに住んで10年になるという。こちらで結婚をし、行商のような仕事をして食っているのだという話であった。

 

翌朝、列車はマドリッド・チャマルティン駅に到着。サンツ駅同様、最近改装なったばかりだそうで、明るく現代的。同じく現代的なメトロ10号線に乗り、1つ目で1号線に乗り換えてびっくり。こちらは屋根やドアの上の部分など隙間だらけ、塗装のはげたポンコツである。初めてのマドリッドであったが、成長途上にある町なのだなと思わされた。3つ目の駅で降りて彼の家へ。ようやく日が昇る。奥さんは不在で、田中さん自ら具のたくさん入ったインスタントラーメンを作ってくれた。さらには今晩泊めていただけるという話の運びとなる。

 

日中はマドリッド市内の主だった場所を見て回る。プエルタ・デル・ソル、プラド美術館、ピカソのゲルニカ、マヨール広場、王宮など。しかしここは都会で、余り長居をしたくなるような町ではなかった。日が落ちて、田中さんの家に向かう。建物の地階で訪問先のインタフォンを鳴らして正面扉を開錠してもらうヨーロッパの都市部に一般的な仕組みであるが、知ってはいてもやってみたことはなく、田中さんにこうして下さいと教わっていた。

 

アンチョビやフォワグラなどを出して頂いて、シーバスリーガル(このへんが時代か)を飲みながら、田中さんのたどってきた、ここに至るまでの道のりのことなど聞く。こうして話していると昨夜会った時の一見“日本人的な”印象は消えてしまって、カタギでないというか、何国人でもない、何か引き締まったものを持っている感じがある。かなり年下の筈の私に対して、きちんと敬語を使って話すのを崩さなかった。

 

やがて奥さんが帰宅。カルメンさんという名に面白がって尋ねたところ、通りでカルメン!と叫んだら数人は振り向くというほどポピュラーな名前なのだそうだ。田中さんがカルメンさんと話すときはスペイン語。日本人とスペイン人の夫婦のコミュニケーションの取り方が見ていて興味深い。夕食後、彼らの結婚式や彼らがしてきた数々の旅行など二人の若いころの写真などを見せてもらう。ベッドは上が掛布団ではなく、スペイン式に薄いシーツのみであったが、ヒーターが効いていてむしろ暑いくらいであった。

 

翌朝10時においとまする。夜行列車で出会って、あれよあれよという間にすっかりお世話になってしまった。私の旅はこの先一か月以上続くことになっていて、その旅先のどこからか観光絵葉書にお礼を書いて送ったはずである。

 

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1984年1月 バルセロナ

路上でお金を稼ぐ人が多かった

 

マドリッドは性に合わなかったもの

と見えて写真は一枚も撮っていない

 

 

 

◇ ◇ ◇

 

田中さんの家でテレビを見た。今なら安宿でもテレビが置いてあるが、当時はそんなことはなかったから、物珍しく眺める。スペインにはいずれも国営の2チャンネルしかないそうだ。国営といってもNHK的な感じではなく、スペイン的である。英語教育の番組(最近、英語の必要性が叫ばれ、始まったとのこと)をやっていたかと思うと、いきなり性教育の番組が始まり、出産シーンも隠さずオンエアされて度肝を抜かれる。フランコ独裁からスペインが解放されてまだ10年足らず。この国はまだ変わりつつある段階なのだと感じた。

 

関連ページ  北欧について ← 現在本編に「マドリッド」はなく、こんなところに田中さん夫妻のことを書いていたのでした。

 

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