[ 80年代バックパッカーの風景]

とりあえず「バックパッカー交遊録」と仮題を付けてみたものの、「交遊」は大袈裟かも知れません。

旅は出会いと別れの反復なので、中には強く印象に残るものある、その個人的記録です。

「忘れ得ぬ人々」(国木田独歩)というのもありますが、あれはまた高尚典雅というか独特の世界だからなあ。

 

SCENE 6  ハンブルグにて(3日目)  (1983年12月)

 

9時頃部屋を出る。少し行ったところで雨が降り出してきて、傘を取りにフラットに戻る。皆にポールと呼ばれている猫が階段の脇にうずくまっていた。U-BahnBerliner-Tor駅に着く手前、Sabine2か月前まで5年間住んでいたという学生寮の前を通る。夜勤明けの彼女は今朝もそこで眠っている筈で、今日はひとりでハンブルグを歩くことになる。黒いゴシックの塔が残る聖ニコライ教会廃墟から、Sabineに勧められたDeich Strasse Deichは土手という意味だと教わった)からニコライ運河へ。風が強く、少し歩いては雨宿りするということを繰り返して港にたどり着く。

 

 

 

25.jpg昼なお灯りの点るハンブルグ港

(時計の針は午後335分を指している。

前日撮ったものだが天気は同じようなもの)

 

ハンブルグでは、度々わが町横浜を連想した。

横浜のシンボルに、ジャック、クイーン、

キングに例えられる建物があって、

このうちクイーンは横浜税関。

写真の建物はまさか税関ではないだろうが、

ちょっと感じが似ている。

 

 

 

 

 

 

 

Sabineのフラットに戻って待っていると程なくSabineが現れる。S-BahnAltona駅に行き、駅前から出るバスに乗る。これから農家であるという彼女の実家に行こうということになっていて興味津津。この辺りの家庭では、家を出ている子供らは23日(今日だ)までに帰省し、24日は教会へ行き、25日は親類が集まって談笑、といったクリスマスの過ごし方をするのだとの解説。

エルベ河の下をくぐり、左岸に沿ってアウトバーンを走る。340分後にCranzというところで下車。家に電話するもつながらず、ここからはヒッチハイクで行くことになる。帰省するときは大抵ヒッチハイクになるという。それどころか小学生の頃からヒッチハイクで通っていたというからこちらは驚くばかり。そういえば、バスの中からこちら向かって手を挙げるヒッチハイカ―を何人かみかけたし、実際、我々の場合も案外すぐに車が停る。最初の車は途中から行く先が違い、我々は一度降りて、そこでもう一度ヒッチハイクを試みることになる。私も国内旅行ではヒッチハイクの経験があったが、“はしご”をしたのは初めてであった。もっとも交渉役は当然Sabineで、私はダンケシェーンとチュ―スを言うだけの役割。

 

Sabineの実家に至る最後の1km程は歩く。Jorkという地区なのだそうだが、辺り一帯リンゴ畑が広がっている。点在する農家はいずれも大きな造りで、中には藁葺きとおぼしきものも見受けられて面白い。たどり着いた彼女の家も立派なものであった。農家といっても中に入ればやはりそれはヨーロッパの家で、日本で見覚えた農家の光景や雰囲気と随分違う。紹介されたお母さんは小柄な人だったが、お父さんは大男で、この人だけが唯一、ここが農家であることを感じさせる。とてもいい人達で、Sabineの素直で朗らかな性格も成程と納得がいく。

 

夕食をごちそうになり、その後も話は弾む。こうして一緒に話しているのはとても楽しかったのであるが、私はその日の夜行列車で1,000km南のザルツブルグに移動することを告げていた。ザルツブルグのクリスマスイヴを見るのが元々の希望であったこともあるが、ハンブルグでの楽しい一時停車も少し長くなってきて、そろそろ新しい土地に移動したくなってきたのである。お母さんがサンドイッチ等の夜食をザックに詰めてくれた。ご両親が別れを惜しんでくれて時間がぎりぎりになる。Sabineが最寄駅Buxtehudeまで車で送ってくれる。再会を約束して、抱擁とキス(両頬にチュッチュとやるやつね)。列車に乗り込むのと列車が動き出すのが殆ど同じであった。

 

 

24.jpg

 

 

 

 

ハンブルグ港とSabine Stuhrholdt

Sabineとはその後数年手紙でのやりとりがあったが、

私が英文で手紙を書くのが億劫なのと、

お互い住所が変わったりしたこともあって、

いつの間にか連絡が途絶えてしまった。

残念ながら再会の約束は実現しなかった。

 

 

 

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