[ 80年代バックパッカーの風景]

とりあえず「バックパッカー交遊録」と仮題を付けてみたものの、「交遊」は大袈裟かも知れません。

旅は出会いと別れの反復なので、中には強く印象に残るものある、その個人的記録です。

「忘れ得ぬ人々」(国木田独歩)というのもありますが、あれはまた高尚典雅というか独特の世界だからなあ。

 

SCENE 6  ハンブルグにて(2日目)  (1983年12月)

 

8時起床。コール前首相が亡くなったことを知る。

 

Sabineにハンブルグを案内してもらう(彼女はこの日、夜勤のバイトがあったのであるが、そのことを私は後になって知る)。まずは中央駅近くの美術工芸博物館。ここには日本のコーナーがあって、葛飾北斎や池大雅の作品が見られるほか、簡単な茶室がセットされていて定期的にtea ceremony が催されるということであった。現在の“歩き方”にも「月に4〜5回実演される」とあるから、長い時間を経て続いているのだなということが分かる。

 

駅を過ぎて左手の方に折れて歩くと、運河によって隔てられて川中島のようになっている一帯に出る。Hafen(港)である。冬のハンブルグはひどく寒く、運河の水面に砕けた氷が一面に浮いていて凄い感じだ。運河にはいずれも似たような赤れんがの倉庫が立ち並び、18世紀の建物だそうだが今も現役で、滑車を使って絨毯などの荷物を各階に上げていた。北の町の重苦しい灰色の空の下での港湾作業風景はいかにも港町らしい感じがあった。

その中の一つの倉庫にSabineは割と気軽に入って行った。スパイスの倉庫だそうで、狭い細い階段をずっと上がっていく。出てきたおじさんと話していたが、今日はもうこの倉庫の作業は終わっていて荷の上げ下ろしは見られないということであった。しかし中の様子は物珍しく、覗き見られただけで十分満足。

ずっと歩いて行って川中島を突き抜け、橋を渡って、いかにも港の風景といったところを歩く。どうしようもなく暗い空で、吹きつける風は冷たく、遠くの方はかすんで見える。大小の船が氷をかき分けて進んでいた。

 

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HAFEN

水面を覆う氷片に船が通った跡が残る。

 

左側の尖塔は聖ニコライ教会廃墟。

空襲で破壊されて塔だけが残ったもの。

車がびゅんびゅん通る幹線道路沿いに

廃墟をそのままの状態で保存している

のがいかにもドイツらしい。

 

 

 

大きなもみの木にローソク型の電飾が施されていたり、キリストの生誕に東方3賢者がやってくるシーンの模型などがしつらえてあたり、クリスマスの準備は万端といった様子の聖ミヒャエル教会から、昨日待ち合わせたRathaus前広場、内アルスター湖へと戻るようにしてゆっくり歩く。大きな教会の周りでは露天市場が立っていて、色とりどりのデコレーション用品、プレゼント用品、お菓子類が並べられてクリスマス気分を盛り上げている。賑やかな通りを歩いているとかなりの頻度でストリートミュージシャンに出合う。ドイツの良い点のひとつは、こういう文化が社会に浸透していることだと思う。ギター片手に歌うお兄さんの曲を少し聴いていたが、老若男女気が向けば足をとめ、暫く楽しんではギターケースに小銭を投じて去っていく。ミュージシャンの方も客と言葉を交わしたり、合いの手を入れさせたり、一緒に歌ってみたり、コミュニケーション上手で、皆が楽しむよう工夫している。

 

緯度の高いハンブルグは暗くなるのが早い。6時過ぎにはフラットに戻る。夕食を済ませた後、Sabineは鍵を置いてバイトに出ていった。病院での夜勤で、一晩が100DM(この時のレートは1DM=86円)。これを月6回で600DMが彼女の収入。一方このフラットでの共同生活は、光熱費込みで月200DM。差額の400DMが自由に使えるというのがSabineの話。月5万円強で暮らしている(中央駅にほど近いロケーションのフラットでの費用が2万円足らず)というのもすごいが、月6日働いて食えるということが驚きであった。

共同スペースでビールを飲んでいたところにGunnaが顔を出したので引きとめ、やがてSusanも加わってあれこれ話し続ける。Gunnaは日本語のテキストや歴史書、さらには習字道具まで持っていた。近頃はアニメ一辺倒になってしまった感もあるが、ヨーロッパで日本文化は結構人気があるのである。出身国の異なる3人であるから互いの文化や社会の仕組みの違いといった話になる。といっても難しい話ばかりしていた訳ではなく、Gunna(インド言語学専攻)がタミール文字、Susan(イラン出身)がアラビア文字、そして私が漢字で、互いの名前など書きあったりして遊んでいた。

 

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