[ 80年代バックパッカーの風景]

とりあえず「バックパッカー交遊録」と仮題を付けてみたものの、「交遊」は大袈裟かも知れません。

旅は出会いと別れの反復なので、中には強く印象に残るものある、その個人的記録です。

「忘れ得ぬ人々」(国木田独歩)というのもありますが、あれはまた高尚典雅というか独特の世界だからなあ。

 

SCENE 6  ハンブルグにて(1日目)  (1983年12月)

 

前年の夏ノルウェーのフロムのドミトリー・ペンションで同室だったSabineとハンブルグで再会した。

港町ハンブルグは現代的大都市で、こういう機会がなければ訪れていないと思う。

しかし、Sabineらと過ごすことによってハンブルグの若者文化をその内側から感じることが出来たのは貴重な経験であった。

ここではハンブルグでの3日間を三つに分けて出来事の起こった順に記録しておきたいと思います。

 

Sabineとは正午にRathaus(市庁舎)の前で待ち合わせ。といってもケータイもインターネットもない頃のことで、細かい打ち合わせは間に合わず、地図を見てメジャーと思われる場所を選び、時間を指定して一方的に書き送ったものだったが、約束の時間の少し前に彼女は現れた。抱擁とキス。両頬にチュッチュッとやるあれで、ヨーロッパなら至る所、日常的に見られる光景であるが、いざやってみるとなると日本人としては少々照れくさい。

 

U-bahnで3つ目、中央駅の一つ先のBerliner-Torで下車。買い物をした後、Sabineのフラットへ向かう。外壁に青色で大きくPeter Jansenと書かれた建物の5階で、中心が上から下まで吹き抜けの螺旋状の階段を上がる。同居人であるGunnaSusanを紹介される。Gunnaはヒッピー風の長髪。インド言語学専攻。静かな話し方が印象的。Susanはイラン出身。経済学専攻。欧米人は概してそうだが、笑顔を作るのが上手な女性である。同室者はもう一人いるのだがクリスマスで帰省中とのこと。彼らの暮らしぶりを見るのは非常に興味深い。ハンブルグでは、若者同士のこういう共同生活は一般的なものであるようだ。

 

夕方Sabineと散歩に出かけ、外アルスター湖沿いに歩く。このとき、小さな交通事故があった。車に接触した子供が転倒、泣き叫んではいたが、自分で歩道まで歩いて行ったし、そう深刻な事故とは見えなかったが、このときのSabineの取った行動は素早かった。状況を確認するや、すぐに走りだして車道を横断して子供に駆け寄る。前の家の戸を叩いて救急車を呼んでもらう。ちょっと日本人ならば考えられない断固たる処置、行動力であった。私は一足遅れてのこのこついて行ったのだが、子供、ドライバー、血相を変えて飛んできた両親、Sabineのように駆け寄ってきた人たちのやりとりを、不謹慎ながら興味深く眺めていた。

 

アルスター湖には氷が張っていた。水鳥がたくさんいて、Sabineは、氷の上をよたよた歩いているのや、滑ってうまく飛び立てないやつ、あるいは飛んできたのが見事なスケーティングで着地したりするのをじっと見たり、時おり声を上げたりしていた。こういうところはフロムで会ったときと全然変わらない。帰り道、古い建物を改造して、アーティスト達にアトリエとしてスペースを与え、作業場であると同時に展示場にもなっている建物に寄る。アーティストは2、3年で交替するそうで、多くのアーティストが使えるようにしているのである。スパイス屋に寄り、公園を抜けて6時頃フラットに戻る。

 

 

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外アルスター湖の夕景

凍っているのは手前側だけであろうか

落陽も尖塔もきれいに映っていた

 

 

 

ヨーロッパの人の普段の食生活はどんなものなのだろうか。Sabineは肉を余り食べないそうである。夕食として彼女が用意してくれたのは、先程のスパイス屋で買ってきたミントティー、黒いパン、バター、チーズ、缶詰の魚。質素というより加工度殆どゼロというところに驚かされたが、普段からこんなものだそうで、これも北部ドイツの若い都市生活者の暮らしの一面なのであろう。黒いパンはドイツらしい食べ物で、日本やイギリスで食べる“食パン”や南欧のバゲットは人気ないそうだ。味がないという意味でpaper bread と呼ぶのだと教えてくれた。フロムの思い出話をしたり、彼女の幼いころの写真を見せてもらったりして話しは尽きなかったが、11時頃、帰省中の人のベッドに行って眠る。

 

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