United Arab Emirates   ドバイ

(データ:1987年10月)

何事も起こらなければ、エジプト旅行から帰国し、ネクタイ締めて社会復帰していたであろう1987年10月初旬、私は焼けつく日射しのドバイにおりました。共通編の「飛行機に乗る」で紹介したトラブルで連れてこられたもので、同地に4日間滞在。

この国は近年随分変わったし、私は観光らしいことをした訳でもなし、またこの国は北アフリカの国々と違ってヨーロッパ的な要素が乏しいので、この項は見聞きしたエピソードのみ。

 

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クリークの船着場に並ぶ渡し船

 

◇ドバイエピソード(その1)

ドバイに来た経緯は、「飛行機に乗る」では淡々と書きましたが、その時点では先行きが見えている訳でなく、大変だったのです。どうにもならない状況のまま夜を迎え、埒の明かない交渉を続けているうちに夜が明け、英国籍のジャッキーが英国大使館に連絡を取ったり(大英帝国のDNAですな)、金ぴかホンコンおばちゃんが“Look at me !  Look at them ! ! ”と啖呵を切ったり、とにかくいろいろなことがあって、再び日付が変わろうとしていた深夜0時過ぎ、2日後にCX便が運んでくれるという話になりました。

やれやれと一団は、空港側が用意したホテルに移動。ところが私の預けたザックが出て来ず、バスに乗れなかった私は、深夜3時に空港建物の前で、一度に載せられなかった皆さんの荷物の山の番をしていたのでした。その時一緒にいた係員が走ってきた乗用車を呼び止め、何事か話し、荷物は俺が見てるから、と言われるままにその車に乗り込むと家族連れか子供を含めた数人の目が暗がりの中でじっとこちらを見ているのでありました。で、その車が少し離れた荷物保管所のようなところに連れて行ってくれ、我がザックを発見したのはいいのだが、パスポートを見せなきゃ渡せないだの、荷物を全部出してみろ(夜勤の暇つぶしをしたいだけ)だの、なかなか解放してくれない。私もここまでくるともうどうでもよくなっていて、一人がこれ食うかと差し出したヒマワリの種の入った皿を受け取りました。

ここら辺りで気づいたのですが、いろいろな人との一連のやりとりはすべて英語で行われていたのでした。さっきの車に何人もぎゅうぎゅう詰めに乗っていた家族連れもかなりブロークンで初め現地語だろうと思っていたのですが、よく聞いてみるとそれは英語。自国の言葉で話さない奇妙な国というのがドバイの第一印象でありました

 

 

 

◇現在のドバイ(2009年2月24日朝日新聞の記事から)

人口145万の8割強が外国人。インド人が最も多く50万人強。次いでパキスタン人、バングラデシュ人、スリランカ人など。外国人の3分の2が建設労働者。

早くから脱石油の多角化政策をとり、自由貿易ゾーンの設置や外国企業への優遇措置により、金融、不動産、観光、運輸、情報の拠点として発展してきた。グローバル化の最先端を走ってきただけに今回の金融危機の影響は大かった。

◇ドバイエピソード(その2)

ホテルに入っても興奮していて寝る気にならず。誰かの部屋に入って飲みながらあれこれ苦労を振り返る。ふとベランダに出てびっくり。何と砂漠の町に深い霧が出ていました。

翌日、運命共同体となった一行の中の知り合いで日本大使館でコックをしているという人がいて、陣中見舞いに来訪、この国のことをいろいろ教えてくれる。王様(首長というのかな)の方針で、地から得た利益(オイルマネー)を地に帰そうと緑化政策を進めており、近頃は雨が降るようになったそうだ。私が見た霧も関係があるのだろう。またこの国は税金が無く、かつ高福祉。内陸部に住むベドウィン族を定住させようと無償で住居を提供しているのだが、遊牧の民はなかなか応じようとしない等々。

 

◇ドバイエピソード(その3)

海岸に出ると西洋資本の高層ホテルが立ち、今日の都市開発の兆しはすでにあった。アラブ服のままジョギングをしている人がいて、それはそれまで滞在していたエジプトでは自ら好んで疲労するなどあり得ない光景であり、生活水準の違いを感じさせられた。クリークを渡ってちょっと古い感じの地区を歩いていた時、後ろからとんと車に当てられる。見るとチンピラ風情の兄ちゃんがどけよと言っている。ゆるゆるした速度だったので怪我する訳ではないが、これまたエジプトでは考えられないことであった。

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生ジュース屋

エジプトでは下痢覚悟であったが、ここでは平気

 

◇出ドバイ

予定された日時にキャセイのカウンターに行くと、立ち働いていたおっさんが私のところに来て、お前、俺を覚えてないかと問う。ネクタイ姿だったので気付かなかったのだが、2日前、確認の為に出向いたキャセイのオフィスで会ったマネージャーであった。この時はサウジ式に白い布にワッカをかぶっていたこの人が「私はここの責任者だ。私が君たちを東京に届けるから心配するな」と言い切ったのであった。その人が陣頭指揮に出てきてくれていた訳で心強い感じがした。


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