「ローマ散策」を読んで

 

「ローマ散策」という本(河島英昭著/岩波新書)が、ローマという町の把握の仕方について、魅力的な切り口を教えてくれます。

 

あとがきにあるように、この本には「3000年近いローマの歴史的時間」と「留学生としてローマに生活したとき以来の、

約30年にわたる、個人的経験」、さらには「日夜、想像上のローマの街路を歩き回った、

この20ヵ月という――本書をまとめあげるための――私の時間」が重なり合って流れています。

主観的な記述でありながら、専門家ならではの古い地図、図版、絵画、写真などの引用に説得力があって、

歴史的時間を生きるローマの動的なイメージが浮かび上がってきます。

 

私は「成程」と感心すること度々でしたが、この本は特に地図を見ることが好きな人には非常に興味深いかもしれません。

「散策」であるので、ローマの地図やガイドブックを傍らに置いて、辛抱強く位置関係を把握しながら読み進めることをお勧めします。

 

では少しだけさわりを。

 

『つまり、丘の三位一体教会堂に関しては、双塔も正面入口の階段もすでに出来上がっていた。スペイン広場にバルカッチャの泉もあった。コンドッティ街もほぼ現在と同じだ。ただ、石の階段だけがなかった。』(61ページ)

これは、世界的観光名所であるスペイン階段の話。丘の三位一体(トリニータ・ディ・モンテ)教会の前はかつて崖だったのだそうだ。古い地図や絵で、スペイン階段ができる前の光景を確認することができる。また、採用されなかった別の設計プランも。同じような記述では、ミケランジェロが設計したカンピドリオの丘の15世紀から現代に至る変遷も興味深い(9〜16ページ)。

 

『前掲ギーディオンの図で、注目しておきたい第二点は、ヴィラ・モンタルトの位置と規模である。もちろん概念的な略図として書いたつもりであろうが、ギーディオンはフェリーチェ・ペレッティの私邸ヴィッラ・モンタルトを広大な規模のものと認識できずに(小さな円のなかに閉じこめられている)、あまりにも非実相的に描いてしまっている。』(113ページ)

フェリーチェ・ペレッティは後の教皇シクストゥス五世。私は全く疎いのであるが、どうもバロック都市ローマ建設の立役者らしい。著者は、ヴィッラ・モンタルトを現在の地図に重ね合わせているが、テルミニ駅周辺一帯を含む広大なものである。私はもちろん、多くのバックパッカーが宿泊してきた安宿街も全域含まれている。どうりで、あの辺の街路が周辺と違って方形になっているのかと納得しました。

また、『ギーディオンの図』というのは93ページに掲載の「教皇シクストゥス5世によるバロック都市ローマの計画図」のことである。実現したものもしなかったものも含まれるが、現在の地図と見比べていると構想のスケールの大きさに興味が尽きません。

 

『大雑把な言い方をすれば、パリオーリの丘からいくつかの谷間を越え、ボルゲーゼ公園の泉から泉を伝って、丘の三位一体教会堂の前へ出るときに、私は地底のヴェルジネ(ウィルゴ)水道に沿って歩いてきたのだ。そのことに気づいた日から、白亜の石段を降りているときにも、コンドッティ街をゴルドーニ広場へ向かって歩いているときにも、私は足下に見えない水の走っているのを感じるようになった。』(64ページ)

土木工事は古代ローマのお家芸で、水道橋や地下水路を建設してローマに給水していた。因みに古代水路の終着点(テルミニ)が集まっていたのが現在のテルミニ駅辺りで、著者はテルミニの語源を近くにあるテルメ(浴場跡)とするガイドブック等の記述を否定している。

蕃族によって破壊されていた地下水路を復旧させたのもシクストゥス五世の業績らしい。ローマの町は至る所に噴水、泉、水道があるが、古代水路による給水が背景にあったのだ。有名なトレビの泉は、かつて90度向きが違っていたそうで、それを描く17世紀の絵図が興味深い。

 

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ローマの町中いたるところにある「泉」

 

中世ローマについては、水路と泉の他にも7つの丘と城壁、要所に配されるオベリスク、7大聖堂巡礼路など様々な観点から考察がなされているが、話はさらにファシズム期のローマの変貌に及ぶ。

 

『ムッソリーニは古代ローマの栄光を下敷きにして《首領》と名乗り、ヴェネツィア宮殿を公館にして、バルコニーから熱狂する民衆に語りかけた。ヴィットーリオ・エマニュエル2世記念堂は恰好な舞台を提供したのである。周辺に広がる中世以来の古ぼけた街区や小路を破壊し、直線850メートル、道幅30メートルの、フォーリ・インペリアーリ(諸皇帝広場)通りを貫通させて、その先に巨大な古代円形競技場コロッセーオを浮かび上がらせた。』(239ページ)

✿著者は現代におけるローマの変貌への論評を抑えつつ、何がどう変わったか記述を続ける。読んでいくと、確かに統一イタリア建国とかファシズムといった時代背景が、たまたまそういう形にしてしまったが、中世期のシクストゥス五世の野望と同類のものが、時を超えて繰り返されたような気になってくる。

とはいえヴィットーリオには違和感を抱いてしてしまう私としては、失われてしまった街の姿を眺めてみたかった気がする。この本によると、ヴェネツィア広場からバチカン方向に伸びるビットーリオ・エマニュエル通りはベッキア・ローマ(ルネッサンス期ローマ)を貫通しており、かなりの破壊を伴ったようである。また、サン・ピエトロ寺院前のコンチリアツィオーネ通りも古い街区を取り壊して建設されたもので、241ページには、そのビフォア、アフターが写真で示されている。

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威圧的を与えるヴィットーリオと渡るのにも苦労するヴェネツィア広場(手前)

 

この本には教えられるところ大であり、まだまだ紹介したい記述はあるのですが、この辺で切り上げます。

ローマ」では、5日間歩き回ってようやく納得できたと書いた訳ですが、まだまだ奥は深かったということですね。

名所巡りをするだけでは手に負えない町だという感じはローマに着いた時から確かにあって、

読んだからには、いつの日かこの本片手にじっくりローマを歩いてみたいものです

 

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