マナーについて

 

ドレスコードがどうとか、チップをどうするかといったことが、ガイドブックに載っているわけですが、

そういったことを私が分かるはずもなく、ここで述べるのはもう少し別のことです

 

(マナーをテーマとする写真はないので、2006年のトスカーナの写真から色の綺麗なのを選んでみました)

 

 

◇現地の人の動作にならうこと

ヨーロッパを旅していて心地よいのは、民度の高さといったものを感じることである。ヴェズレーの聖マドレーヌ寺院で雨宿りをしていたとき、入ってきた女性が私の存在に気付き、声は出さずに口の形だけでボンジュールと挨拶をよこした微笑が印象に残っている。また同じフランスでTGVに乗ったとき、乗客が皆、検札に回ってきた車掌に切符を差し出しながらボンジュールと挨拶をし、自然な流れのままに二言三言世間話らしいやり取りをしているのには、さすがは文化の国フランスと感心させられた

「マナーについて」などという私らしからぬ項目をたてることを思いついたきっかけは、その後日本の特急列車内で見かけた光景。途中から乗り込んできた50歳ぐらいのおっさんの、検札に来た車掌の方を見ようともせずキップを渡す尊大な態度。その前のTGVで体験した車内風景と見事な対照ぶりであった。威張るのは結構だが、それでお前は楽しいのかとつい思ってしまったわけだが、やはりこれは随分貧しい光景を見てしまったという気がする。

見知らぬ他人同士でも何かの縁があれば目と目を合わせてにっこりという習慣、そういった人間や社会の豊かさは、ヨーロッパを旅する心地よさの源泉ではないかと思う。我々日本人が何でもかんでも人まねできるわけではないにしても、ヨーロッパにいるときくらい、いいところはどんどん取り入れてみたいものである。

 

◇現地の人の動作にならうこと(PART2)

もうひとつ思うのは、マナーというか、ある行為が社会的に許容されるかどうかはその社会の慣習次第というところがあるということである。今は喫煙自体が反社会的な行為と見なされるようになってしまったが、喫煙が許されている場所であるとして、大人がタバコを吸っていても何も感じないが、中学生がタバコを吸っていると嫌な感じがする。これは本来の立法の趣旨であるその中学生の健康を心配するからではなくて、禁じられていることを目の当たりにする違和感、さらに言えば、禁じられたことであることを自覚しながら、敢えて公衆の面前で煙草を吸う気持ちのありようにざらざらしたものを感じてしまうからだと思う。この例で、もし中学生の喫煙が禁止されていなかったとすれば、同じ光景を見ても何も感じなかったはずである。

マナーというのは、形式よりも人に不快感を与えないということが肝要かなと思うのであるが、日常的なさりげないところで社会の慣習が違っていたりするので、意外に自覚しないままマナー違反をやってしまう可能性がある。この意味で現地の人の動作を観察して真似することは案外大事なことではないのかなと思うのである。

例えば、次に通る人の為にドアを持っておくこと。これをしないですたすた行ってしまうのは、ヨーロッパでは思う以上に反社会的であるような気がする。また長距離列車で、年配の乗客は大荷物を持っているものと相場が決まっているが、列車が到着したときこれを無視してコンパートメントを後にするのは非難の対象である。日本と比べると列車と高低差のあるプラットホームに下ろすまで荷物を持ってあげないといけない。他に商店に入るときに黙って入ることもタブー。衣類や小物を扱う店で、陳列されている商品にやたらと手を延ばすのもアウト。逆のケースもあって、道路にごみを捨てるのは日本ではかなり反社会的だが、ヨーロッパでは比較的寛容であるような気がする。マナーを形式ととらえると、あれもダメこれもダメで気が重くなるが、旅にあって、あんなことをするんだなあ、日本と違うのだなあと発見すること自体旅の楽しさのうちではないかと思うのである。

 

 

以上偉そうなことを書いてきましたが、かつて複数のヨーロッパ人の眉をひそめさせてきた私の反省に基づく結論であります。真似することは付け焼刃であったとしてもいいのです。私はヨーロッパではドアを次の人のために持ちますが、町のコンビニでそんなことはしません。見知らぬ人に微笑むのも、日本でやれば変質者扱いされるだけでしょう。その場その場でお互い気分良く過ごせれば最上あって、上記のオッサンの例を他山の石と思うことにしましょう。

 

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