[ 80年代バックパッカーの風景]

とりあえず「バックパッカー交遊録」と仮題を付けてみたものの、「交遊」は大袈裟かも知れません。

旅は出会いと別れの反復なので、中には強く印象に残るものある、その個人的記録です。

「忘れ得ぬ人々」(国木田独歩)というのもありますが、あれはまた高尚典雅というか独特の世界だからなあ。

 

SCENE 5  バンコクにて  (1988年 6月)

 

成田を出発したタイ航空機は6時間後の午後2時、ホームグラウンド、バンコク・ドンムアン空港に着陸。乗り継ぎのコペンハーゲン行きが出るまで8時間近くある。それだけの時間を空港で潰すのはばかばかしいので、バンコク市内に出ることにした。入国審査は、係の女の子が隣りの同僚と世間話しながらチェックするといった具合で楽勝。

 

で市内への行き方を尋ねていると、同じことを聞きに来た白人女性がいて、話を聞いていると乗り継ぎ便の出発時刻が近い。じゃあタクシーをシェアしようということになる。彼女はイングリッドという名のイギリス人。“Im a British.”という、そのBritishの発音にキレがあって格好良かった。20代後半と見えたが、今はお茶の水の英会話学校で英語の講師をしているが、故郷を出たのは随分前で、日本に来る前はシンガポールでやはり英語を教えていたという。英語が求められる限り、英米人そういう世渡りが出来るのだ。今回はお母さんの故郷であるオスロに家族が集合するそうで、家族に会うのは8年振りとのこと。イングリッドという名は、イングリッドバーグマンと同じだからすぐに覚えられたが、北欧系の名前なのだそうだ。

 

イングリッドの行動パターンはバックパッカーそのもの。いちいち言葉で説明しなくても済むので助かる。荷物を空港に預け、両替を済ませてから、空港建物を出る。少しくすんだ感じの青空が広がっていて熱帯らしい。タクシー乗り場に至るが、これを無視してそのまま歩き続けると、すぐに白タクが寄ってくる。200バーツという料金を確認して、クーラーの効いた車内に乗り込む。

市内まで少し距離があるようだったが、ハイウェイを快調に飛ばす。サイアムスクエアと言ったか、ここが中心部だと言う場所で車が止まる。運転手は後部座席の我々に振り向いてタクシーの営業許可証のようなカードを示し、空港からの料金はここに300バーツと書いてあるだろうと指す。200バーツと言ったじゃないかと言いながら、二人同時に100バーツ札を運転手の手にねじ込み、サッと左右のドアから下りて現場から離れたのが、タイミングが合って面白かった。

 

ビルが並び、車が行きかう大通りは面白くないので、小路、小路を選んで歩く。ホテルの客引きらしいおばさんが登場し、我々に付いて歩き、あれこれ話しかけてくるのが、アラブでの経験を思い出させる。ハローと話しかけてきたオッサンは腕に注射を打つ真似をする。水路を囲んで女や子供達が下を覗き込んでいるのを何だろうと行ってみると、これも麻薬であろう、男が半分水につかって意識朦朧の態であった。この辺りの家は貧しく、玄関というスペースがなく、入口はすぐに6畳ぐらいの土間に続き、家の人が座ったり寝たりしていた。

 

 

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1988年6月

バンコクの路地で

 

 

 

 

イングリッドがロンドンのチャリング・クロス・ステーションに似ていると感想を述べた中央駅の近く、濁った川を渡るとチャイナタウンに差し掛かる。漢方薬屋とミシン屋とヒヨコ屋と棺桶屋が次から次へと現れるのが珍しい感じであった。何屋であったろうか、水槽に“竜の落とし子”が泳いでいるところがあって、これは日本語で何と言うのかというイングリッドの問いに、a fallen child of dragon と教えて随分感心された記憶がある。

やがてチャイナタウンを抜け、歩道に屋台の並ぶ道に出る。食べ物屋、駄菓子屋、衣料品店、ミュージックテープを売る店など。人通りが多く、歩くのもままならない。街頭テレビで007をやっていて人が群れていた。暑い中歩きづめで疲れを感じ、悪名高い交通渋滞のこともあるし、そろそろ切り上げようということになって、流しのタクシーを停め、空港に向かう。

 

聞いていた通り市内の渋滞はひどく空港に着くのに2時間かかったが、それでも出発までには余裕があった。空港内のカフェテリアでスパイスの効いたヌードルとビールで慰労会。話しているうちに話題が日本人の国民性のことになる。イングリッドのポイントは2つあって、1つは例えば自分がシンガポールで英語を教えていた時、生徒たちはイギリスとはどういう国かという点に興味を持って、あれこれ尋ねてくる。ところが日本で尋ねられることの多くは、日本をどう思ったかとか、日本の食べ物はどうかとか、自分の国のことである、ということ。もう1つは、自分たち欧米人に対して非常にフレンドリーに接する同じ人が、他のアジア人に対して別の顔を見せることがある、ということ。どちらもそうである背景がある訳で、興に乗って話していたが、話はあちらに飛び、こちらに飛び、最後には太宰の人間失格を一度読んでみてよ、というとんでもない結論となって時間切れ。イングリッドはパリ便の、私はコペンハーゲン便のゲートに向かった。

 

 

 

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