(データ:1986年9月)
◇モスクワ・バス見学ツアーについて ソビエト連邦が解体する前、西側の旅客機はシベリア上空を飛ぶことができなかったから、ヨーロッパに向かうときにソ連の国営航空会社アエロフロートを使うというのは一つの手であった。快適さは期待できないが、モスクワまで10時間という速さは魅力的であったし、また日本から行きにくい都市に行くのに便利であり、私の場合はアテネ行きとアルジェ行きとでアエロフロートを利用している。あれも冷戦のひとつの表れだったと思うのだが、社会主義陣営の盟主としてソ連はモスクワから世界中の実に様々な都市に向けて飛行機を飛ばしでいた。ピョンヤン行きやら地理の教科書の中でしか見たことがないようなアフリカの小国への便など、空港で発着表示板を物珍しく眺めていたものである。 モスクワでトランジットするとき、同日で乗り継げない場合がある訳で、空港近くのホテルに宿泊することになる。出入り口は銃を持った兵士が立ち(もちろん出入り禁止)、ホテルと言うより幾分は収容所という趣のものであったが、係員の対応振りやら出される食事やらの一つ一つが“ソビエト体験”。そのハイライトが「モスクワ見学バスツアー」なのであった。 右の写真はモスクワ・シェレメーチェボ2空港のトランジットホテルのレセプションである。カーテンは閉められていて、連絡事項は時計の下に見えるプレートに掲示されている。上から読んでいくと、部屋は相部屋になるだの、食事は何時から何時にとれだの、飛行機の出発時刻の2時間前にバスが来るからロビーで待っていろだの書いてある続きに、午後から3時間バスでcity excursionを行う、11時受付、というのがある。 ロビーで同じように暇をもてあました人たちと待っていると、やがて係りのおばちゃんが現れ、受付名簿を頭上にかざしながらこちらへ集まれと合図する。 ◇バスツアー体験記 定員制であったようで、バス一台丁度座席が埋まっている。空港からの幹線道路を走り、やがてモスクワ市内に入る。しばらくしてバスが止まり、30代半ば位の女性ガイドが乗り込んでくる。 バスはモスクワ中心部と思われる一帯をぐるぐる回る。赤の広場とかロシアホテルとかの名所に差し掛かっても停車することはない。ましてバスを降りて歩くことは認められていない。銃を抱えた兵士が同乗しており、観光しているのか護送されているのか見た目では分からない扱いであった。
モスクワ市内 面白かったのはこのガイド嬢で、しばしば「私の父はレニングラードの北方何キロのどこそこで、戦闘機に乗って云々」といった話が挿入され、しかもこの個人レベルの話が「私たちも平和を願っているのです」といった大きな話につながっていく。ソ連の広報係といった風情であった。 説明は熱心であるが、なにしろ遊びがない。モスクワ川を挟んでクレムリンを見るという好点に差し掛かったときバスが停車した。これはこのバスが観光のために止まった唯一の機会であったから、皆写真を撮ろうとしたり、ガイドブックを見ようとしたりして車内がざわつく。そのときこのガイド嬢ピシャリと、何で皆さんそう騒がしいのですか、私がこれからちゃんと説明します、と決めつけた。 ガイド嬢は、バスがホテルに戻るとき、来たときと同じように途中でバスを降りた。その間際、東南アジア系のお兄ちゃん達のグループが写真を撮らせてくれとカメラを向けたが、このときの彼女の笑顔は一瞬素顔のものであった。この一瞬を見られたのは良かった。当時ヨーロッパで会ったバックパッカーたちの多くがロシア人の生の声を聞いてみたいと言っていたのを思い出す。当時はそれだけ社会的な距離があったのだ。バスを降りたガイド嬢はしかし笑顔を消し、背筋を伸ばし、すたすたと歩いてそのまま人ごみの中に消えていった。 |
◇当時のアエロフロート機 “機内で雨が降る”などと評されたアエロフロート機であるが、私が一番苦労したのは座席の狭いこと。持ち込んだザックを足元に置かされ(普通は規則違反)、そうするとザックの上以外足を乗せる場所はなく、しゃがんだ格好をずっとしているはめとなった。 最初の印象で強烈だったのは太ったおばさんのスチュワーデス。通るたびに床がぎしぎし鳴る。機内食では、“配給”という言葉を連想した。2度目に乗ったときはペレストロイカ後で笑顔も見られるようになっていたが、映画や音楽のサービスはやはり無い。アルコール類は有料であったが非常に安価であった。 国内路線で時々報道される墜落事故は、国際線では聞いたことがない。しかし、旋回するときの機体の傾け方、民間機がこれでいいのかと思う位尋常でなく、随分怖い思いをした。 トランジットホテルのレセプション 用事があるとき以外、カーテンが開くことはない モスクワ市内 ◇モスクワの印象 このとき私はギリシャからの帰途であったが、アテネに比べるとはるかにヨーロッパ的であった。聖ワリシー教会のような建造物はあれは何の系統だろうと思ってしまうが、それを除けば、見た目ウイーンをちょっと暗くした感じ。寒かったがモスクワの人にはどうということもないのであろう、人出もかなりあった。人は厚着だし、町もどんよりしてみえたが、何というか静かな活気を感じた。 都市に川が流れるのはヨーロッパの常であるが、ここモスクワを流れるモスクワ川も風情は中部ヨーロッパのものであった。
聖ワリシー教会 奇妙奇天烈な造形。これがギリシャ正教というものか |