初めてのヨーロッパ訪問の際に持っていったガイドブック「ヨーロッパ一日4千円の旅」
その中に東ドイツの観光当局が打った広告ページがあってそのコピーが、
「DDRのディスコで踊ろう」(踊る若者たちのイラスト付き)
ううむ、これはどう反応すべきものなのだろうかと思わず見入ってしまいました。
この感じが今、誰かに伝わるだろうか。
同じドイツ人の国ながら、当時の東ドイツは「壁」の向こうのちょっと得体の知れない国であった訳です。
西独領内を列車で北上中、同じコンパートメントに乗り合わせたおじさん達が、
それまで陽気に騒いでいたのが急に真面目な顔になって、見ろ、あれが国境だ、あの向こうが「東」だ、と指さしたのが思い出されます。
<負の遺産>
私がちょっと気になったのは、東と西とを分ける無人緩衝帯が今どうなっているのかということ。
良くは知らないが南北に延々と幅何百メートルの無人地帯が続いていた筈で、
地雷が埋めてあるという話もあったような。
そうであったとしてもドイツ人の事だからすぐに処置したのだと思うが、
いまだに森の中に誰の所有物でもない帯が横たわっているのだろうか
残念ながら後ろへと飛び去る車窓風景からそういったものを見出すことはできませんでした。
<ベルリン>
かつて、西ベルリンは政治・軍事的な陸の孤島であった。
ベルリンという都市は、東独領内にあり、ベルリンの壁により東ベルリンと西ベルリンに分けられていた。
東独を目指す旅行者はまず国際列車で西ベルリンに移動、ベルリンで東独に入るのがパターンだったようだ。
出入国ルートは複数あったようだが、そのひとつ、あれはバックパッカー好みの検問所だったのだろうか、
ドイツらしからぬ「チャーリーポイント」なる呼称が、東独を経験していない私でも記憶に残っている。
ベルリンの壁が取り払われて20年余の今年、私は見事に現代的なデザインのベルリン中央駅に立った。
森の中の無人緩衝帯は森に還りつつあるのかもしれないが、大都市ベルリンでは、
空白の歴史を埋めるべく、都市改造がなされているように見受けられる。
いまやベルリンはヨーロッパ最先端の文化都市となっているが、
その昔、不安な気持ちでチャーリーポイントを抜けた往時のバックパッカーには
是非今のベルリンを訪問し、その変貌を体感してもらいたいものである。
(過去を持たない私にはベルリンはただの大都市で、駅構内をうろうろして時間を潰し、接続列車に乗り継ぎました)
ドレスデン旧市街中心部
<旧東独あれこれ>
町を歩いていて、通りの名前など町なかで目にする単語が旧東側を感じさせることがあった
サービスという概念が無かった旧東独時代をいまだに引きずっているのか
非常に不愛想な応対をされたことが大変に短い滞在ながら複数回あった。
食料品店の店主の地元の常連客に愛想を見せる同じ顔が、
こちらに向けるあからさまに不愛想というか、面倒臭そう、迷惑そうな顔には何とも釈然としない気分
ドレスデン中央駅のDB窓口で、居並ぶ数名の係員が、いずれも女性、年配、肥満、であるのに驚かされた
さすがにDBも経営統合して20年になる訳だから、旧東独というよりドイツの現象なのかもしれないが、
とにかく「絵」としては印象的であった。